友達いない、みじめ。そう感じる心との向き合い方

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こんにちは。Life Without Friends 運営者の「ゆう」です。

「友達いない、みじめだ」というキーワードで、ここにたどり着いてくださったのですね。ありがとうございます。SNSを開けば楽しそうな集まりばかりが目に入り、「友達がいない自分はダメなんじゃないか」と劣等感を抱えてしまう。特に40代を過ぎてからの休日に、ふと強烈な寂しさに襲われることも、あるかもしれません。

私自身、もう25年ほど「友達」と呼べる存在がいない生活を続けています。家族はいますが、社会的なつながりとしての「友達」がいない。そのことで、かつては自己肯定感が低くなり、自分を責めた時期も長かったです。

この記事は、同じように「友達いない、みじめだ」と感じているあなた、特に30代、40代の男女に向けて、私がどうやってその感情と向き合ってきたかを、正直にお話しするものです。これは「解決策」というより、「こういう捉え方もあるよ」という一つの提案です。

この記事のポイント

  • なぜ「みじめ」と感じるのか、その心理の背景
  • 「友達がいない」状態をどう捉え直すか
  • 私が実践している「一人の時間」の過ごし方
  • 「みじめさ」と上手に距離を置くためのヒント
目次

友達いない みじめと感じる心理と劣等感

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「友達がいない」という事実。それ自体は、ただの客観的な状況でしかないはずなのに…。なぜか私たちの心の中では、「みじめだ」という、胸がチクッとするような、重たい感情に変換されてしまう。

これ、本当に苦しい感覚ですよね。私自身、この「みじめさ」や「劣等感」の正体は一体何なんだろうと、もう何年も考えてきました。

このセクションでは、まず「なぜ、友達がいないと『みじめ』と感じてしまうのか」という、その心理的な背景について。私たちが無意識に抱えてしまっている「劣等感」が生まれるメカニズムを、私なりに少し深く掘り下げてみたいと思います。

「みじめさ」と劣等感を生む比較の心理

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「友達がいない」という事実。ただそれだけのはずなのに、なぜか「みじめだ」という、胸の内側を冷たい手でぎゅっと掴まれるような、重たい感覚に陥る…。私にとって、これはもう25年以上続く、大きな問いでした。

そして、私なりに考え続けた結論は、やはりこれです。この「みじめさ」のほとんどは、「他人との比較」から生まれている。

例えば、もし今、あなたが誰もいない無人島で一人で暮らすことになったとします。そこで「友達がいない、みじめだ」と感じるでしょうか?

たぶん、感じないですよね。感じるのは「寂しい」とか「不安だ」とか「お腹すいた」とか(笑)、もっと本能的で、絶対的な感情のはずです。

「寂しさ」は、他者が“いない”という絶対的な状態から生まれます。でも、「みじめさ」や「劣等感」は、違います。それは、自分より「持っている(ように見える)人」と自分を比べた瞬間に初めて生まれる、相対的な感情なんです。

なぜ私たちは「比較」の土俵に上がってしまうのか

では、なぜ私たちは、わざわざ自分から「比較」という土俵に上がって、勝手に負けて、勝手に「みじめ」になってしまうのか。

特に私のような、人目を気にするタイプ、あるいは真面目で完璧主義なところがある人間は、この罠にハマりやすいと感じています。

それは、私たちの中に「社会的な“普通”」や「“まともな大人”の基準」という、透明だけれど非常に強力な物差しが、深く刷り込まれているからじゃないか、と。

  • 「友達が多い」「休日に人から誘われる」= 人間的に魅力がある、信頼されている【正解】
  • 「休日にずっと一人でいる」「誘う相手がいない」= 誰からも必要とされていない、人間的に欠陥がある【不正解】

こんな風に、無意識に〇×をつけてしまうんです。

本当は、幸せというのは、極めて個人的で内面的な感覚のはずです。「一人で読む深夜の読書が最高」とか、「うちの猫の肉球の匂いを嗅ぐ瞬間が至福」とか(私です)。でも、自分の内側にあるその「小さな幸せ」に確信が持てない時、私たちは不安になります。

そして不安だからこそ、「友達の数」や「SNSでの“いいね!”の数」「休日の予定の埋まり具合」といった、外側にある「わかりやすい基準」に頼りたくなる。まるで、自分の人生の通信簿を、他人に採点してもらおうとするかのように。

「みじめさ」の正体

「みじめさ」とは、「友達がいない」という事実そのものではありません。
それは、「友達がいる(ように見える)他人」と自分を比べ、「自分は“普通”の基準に達していない」「何か人間として根本的に欠けているのではないか」と感じた時に生まれる、痛みを伴う「劣等感」です。

私の「比較の罠」体験:SNSのBBQ写真

私の場合、家族と6匹の猫がいて、友達は今もゼロですが、家の中は物理的に非常に賑やかです。それ自体は、とても幸せなことだと頭ではわかっています。

それなのに、です。ふとSNSを開いて、昔の知人が大勢でBBQをしている、あのやたらと彩度の高い写真なんかを見てしまうと…ダメですね、胸がザワつくんです。

(あぁ、楽しそうだな)
 ↓
(それに比べて、俺は今日も家族と猫以外、誰ともまともな雑談をしていない)
 ↓
(俺には、ああいう場に「誘われる」ということが、もう20年以上ないな)
 ↓
(これって、やっぱり人として“何か”が欠けてるんだろうか…)

この思考の滑り台こそが、「比較の罠」です。
もうこの時点で、私の幸せの基準は「家族と猫との日常」ではなく、「SNS上の他人のBBQ」にすり替わってしまっている。この「比較」のスイッチが入った瞬間に、私の心の平穏は終わり、「みじめさ」との苦しい戦いが始まってしまうんです。

他人の目を気にする人の4つの傾向

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私も、この「人目を気にする」という性格とは、子供の頃からずっと付き合ってきました。極度に緊張しやすく、自分でも面倒になるほど変なところで完璧主義。だから、「他人からどう見られているか」が、自分の価値を決める唯一の物差しになってしまいがちでした。

だからこそ、人一倍「友達がいない自分」を「他人(社会)はどう見ているんだろう?」と不安に感じてきた自負があります(変な自負ですが…笑)。

これはもう、私の徹底的な自己分析と反省の塊ですが、この「他人との比較」の沼にハマりやすく、結果として「みじめだ」と感じてしまう人には、いくつかの共通した傾向があるように感じています。

傾向①:根深い「自己肯定感の低さ」

これはもう、土台の部分かもしれません。自分自身で「まあ、俺は俺でいいか」「こんな自分でも、存在している価値がある」と、心の底から思えていない。

だから、「みんなが持っている(ように見える)もの=友達」が自分にないことが、単なる「ライフスタイルの違い」ではなく、自分の「人間的な欠陥」の決定的な証拠のように思えてしまうんです。

「友達がいない」→「誰からも選ばれなかった自分」→「やっぱり自分には価値がないんだ」と。この思考のループは、本当に苦しいですよね。自分の価値を、他人の存在(=友達)によってしか証明できない、非常に不安定な状態です。

傾向②:「こうあるべき」という完璧主義の呪縛

「まともな大人は、人脈が広いべきだ」
「大人にもなって、休日に誘う相手がいないのは、社会人としておかしい」
「家族とは別に、何でも腹を割って話せる親友が“いるべき”だ」

…こうした、社会が作り出した、あるいは自分が勝手に作り出した「理想の大人像」という、透明な物差し。私のような完璧主義なところがある人間は、その物差しから1ミリでも外れる自分を、なかなか許せないんです。

「友達がいない」という事実は、その「完璧な大人の絵」から決定的に欠けているピース。それを見つけるたびに、「あぁ、自分はまた“べき”を守れなかった」「“普通”になれなかった」と、自分で自分を減点し、罰してしまう。これが「みじめさ」に直結します。

傾向③:「誰かに認めてほしい」という承認欲求

これも厄介です。誰かに「すごいですね」「楽しそうですね」「あなたが必要ですよ」と認めてもらうことでしか、自分の存在価値を実感できない状態。

この感覚が強いと、「友達の数」や「SNSでのリアクション」は、自分がどれだけ他人に承認されているかを示す、最もわかりやすい「バロメーター」のように見えてきます。

だから、友達がいない(=承認バロメーターがゼロ)の自分は、「誰からも認められていない、社会的に見て空っぽの存在」のように感じてしまう。その恐怖と虚無感が、「みじめだ」という感情を引き起こすんです。

傾向④:「他人の評価」=「自分の絶対価値」という思い込み

これが、私が最も強く囚われていた感覚かもしれません。「自分は自分をどう思うか」よりも、「他人は自分をどう思っている(だろう)か」が、世界の全てになってしまう。

実際には、驚くほど誰も自分のことなんて気にしていない。それは、頭では痛いほどわかっているんです。私も47年生きてきて、それは学びました。

でも、人目を気にする癖が染みついていると、街で一人で食事をしている時、ふと周りのテーブルの笑い声が聞こえると、「もしかして、あの人たち、俺が“ぼっち”なのを見て『哀れだ』と笑ってるんじゃ…?」と、ありもしない“他人の視線”という名の亡霊に怯えてしまう。

「あの人、友達いなくて可哀想」と(誰も言っていないのに)思われている“だろう”という不安。その「想像上の他人の評価」が、そのまま「自分の絶対的な評価」になってしまうんです。

私なんて、見事にこの4つ全部に長年当てはまっていました。まさに「人目を気にする」ことにかけては、プロ級だったと自負しています(笑)。

でも、こうして「あぁ、自分はこのパターンにハマってたんだな」と客観的に認識できるようになったこと自体が、私にとっては大きな一歩でした。

SNSが加速させる「友達の呪縛」

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昔は、他人の「楽しそうな人生」なんて、年に一度の年賀状くらいでしか知る術がありませんでした。「家族でハワイに行きました」とか、「子供が生まれました」とか。それも年に一回、まとめて知るだけ。だから、自分の日常と比べるヒマも、心の余裕もあった気がします。

でも、今は違います。24時間365日、手のひらの上で、他人の人生がリアルタイム(のように見える形)で流れ込んでくる。

特にインスタグラムのようなビジュアル中心のSNSは、私に言わせれば「他人の幸福ハイライト・強制閲覧装置」です。もはや「比較製造機」と呼んでもいい(笑)。

あそこで流れてくるのは、他人の人生の「最高の一瞬」だけ。それも、何度も撮り直され、完璧にフィルターをかけられ、入念に「演出」された、“作品”としての一瞬です。

「演出された非日常」が「普通の日常」だと錯覚する

頭では「これは演出だ」「見栄だ」とわかっているんです。私だって47年も生きていますから、それくらいは理解しているつもりです。

でも、人間は弱いもので…。そういう「キラキラした投稿」—お洒落なカフェでの女子会、大勢でのBBQ、高級ホテルのラウンジ、仲間からのサプライズ誕生日会—を、アルゴリズムによって毎日、毎日、浴びせられ続けると、感覚が麻痺してくるんです。

そして、いつの間にか「これが“世の中の普通”なんだ」「“まともな大人”は、こういう充実した休日を送っているんだ」と、完全に錯覚してしまう。

そうなると、自分の現実が急に色褪せて、みじめに見えてくる。私で言えば、休日にやることといえば、溜まった洗濯と、6匹分の猫のトイレ掃除、あとは近所のスーパーへの買い出し…。その、リアルすぎるほど「リアルな日常」と、他人の「編集された非日常」を比べて、「…なんて自分はみじめなんだ」と、勝手に落ち込んで、勝手にHPが削られていく。

これが「友達の呪縛」を何倍にも、何十倍にも加速させる、SNSの本当に恐ろしいメカニズムだと私は思っています。

SNSで絶対にやってはいけないこと

それは、あなたの「ありのままの日常(の全て)」と、他人の「編集されたハイライト(の一瞬)」を、同じ土俵で比べることです。

それは、プロボクサー(他人)と、普通の人が、いきなりリングで殴り合うようなもの。最初から勝ち目のない、不毛な消耗戦でしかありません。

私の選択:積極的な「防衛」

私は、この「不毛な消耗戦」に本気で疲れてしまいました。自分の心を、これ以上すり減らしたくなかった。

だから、数年前にフェイスブックもインスタも、見る専門だったX(旧Twitter)も、ほとんどのアカウントを削除しました。

これは、人付き合いを避けるためとか、そういう消極的な理由じゃありません。自分の精神衛生を守るため。自分の「幸せの基準」を、これ以上他人に乗っ取られないようにするための、積極的な「防衛」でした。

他人の「楽しそうな姿」を物理的に遮断する。これは、私のように人目を気にして落ち込みやすい人間にとって、驚くほど効果がありましたよ。

自己肯定感の低さとみじめさの関係

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もし「他人との比較」や「SNS」が、「みじめさ」を引き起こす“外的な要因”だとしたら。この「自己肯定感の低さ」は、まさにその“内的な土壌”そのものだと、私は思っています。

自己肯定感とは、私なりの雑な言葉で言えば、「まあ、こんな自分でもいいか」「欠点だらけだけど、まあ生きてていいか」と、自分自身に“存在許可”を出せる感覚のこと。決して「俺はすごい!」という自信過剰なことではありません。

この「存在許可」を、自分自身で出せない時…。私たちは、その許可を「他人」に求めてしまいます。いわゆる「外部からの承認」によって、自分の価値を測ろうとし始めるんです。

そして、その「外部からの承認」の、最もわかりやすい形が「友達」の存在です。

自己肯定感が低い時に陥る「危険な方程式」

  • 「友達がいる」= 他人から“選ばれている” = 自分には価値がある(証明された)
  • 「友達がいない」= 他人から“選ばれていない” = 自分には価値がない(証明された)

私自身、20代、30代の頃は、この方程式にガチガチに縛られていました。「友達がいない」という事実は、単なるライフスタイルの一つではなく、私の「人間性そのもの」を否定する、決定的な“証拠”のように思えていたんです。本当に苦しかった。

「なぜ自分は、他人から選ばれないんだろう」「何が欠けているんだろう」と。それはもう、孤独や寂しさというより、「人間失格」の烙印を押されたような、痛みを伴う劣等感でした。

「価値」は、「関係性」の“外側”にある

でも、今だからこそ、声を大にして言いたいことがあります。これは、私が25年かけてようやく辿り着いた、一つの確信です。

それは、「あなたが持っている“友達の数”」と、「あなたという人間の“本質的な価値”」の間には、本当に、まったく、1ミリも相関性がないということです。

あなたの価値は、誰かに好かれることや、誰かに誘われることで「発生」するものではありません。そんな“報酬”のようなものではないんです。あなたの価値は、あなたがこの世に生まれた瞬間から、無条件に、あなたの中にすでに存在しているものです。

…と、こんな当たり前のことを言われても。

わかります。自己肯定感がどん底に落ちている時は、この「当たり前のこと」が、どうしても信じられないんですよね。私もそうでした。

「価値があるなら、なぜ誰も私を選ばないんだ?」と。そう感じてしまう。それは、心が弱っている証拠です。

でも、事実として。あなたは、友達がいようがいまいが、それだけで、とてつもなく価値があります。今は信じられなくても、頭の片隅に「どうやら、そうらしいぞ」と置いておくだけでも、いつかあなたを救う御守りになるかもしれません。

40代の孤独は正常な発達プロセスか

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専門家ではないので断言はできませんが、40代になって「孤独だ」と感じることは、ある意味で「正常」なことではないか、と私は考えています。

学生時代は、クラスや部活という「強制的なコミュニティ」がありました。でも、社会人になり、特に40代にもなると、ライフステージが本当にバラバラになります。

  • 結婚して、子育てに追われる人
  • 仕事(キャリア)が最優先の人
  • 親の介護が始まった人
  • 独身を謳歌している人

物理的な時間も、興味の対象も、優先順位も、みんな違ってくる。学生時代のように「ただ一緒にいて楽しい」だけで関係を維持するのは、非常に難しくなります。

「友達」の定義は変わる

若い頃の「数」や「頻度」を追い求める友情から、成人期は「質」や「距離感」を重視する関係へと、自然に移行していくものかもしれません。

だから、もしあなたが40代で「最近、昔の友達と疎遠になったな」と感じていても、それはあなたが「みじめ」だからではなく、単に人生のフェーズが変わったという「自然な現象」である可能性が高いと、私は思います。

友達いない みじめな休日から脱却する

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さて、前の章では「なぜ私たちが『みじめ』と感じてしまうのか」という、ちょっと面倒くさい(笑)心の仕組みについて、私なりに考えてみました。

でも、頭で理屈がわかっても、日曜の夕方に感じるあの独特の虚無感は、なかなか消えてくれませんよね。

ここからは、もう少し具体的に。「じゃあ、その『みじめ』だと感じがちな休日を、どうやって少しでもマシな、できれば『豊かな時間』に変えていくか」。私が実際に試行錯誤している(あるいは、憧れている)行動や、心の持ち方について、正直にお話ししていきたいと思います。

社会人の「ソロ活」で一人を楽しむ

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「友達がいない」という状態を、ネガティブに「ぼっち」と捉えるか、ポジティブに「ソロ活」と捉えるかで、人生の彩りは大きく変わります。

「ぼっち」という言葉には、どこか「(本当は輪に入りたいのに)入れてもらえない、取り残された人」という、受動的で“みじめ”な響きを感じます。私自身、昔はこの言葉に縛られていました。

でも、今は「ソロ活(ソロ活動)」という言葉を、私は積極的に使っています。これは、「自らの意思で、積極的に“一人”を選び、その時間を満喫する」という、能動的でポジティブな行動を指します。これは「みじめ」とは対極にある、私にとっての「贅沢」なんです。

なぜ「ソロ活」が最高なのか?

正直に告白しますが、私は他人と予定を合わせるのが本当に、本当に苦手です。気疲れしますし、相手の機嫌を伺うのも面倒くさい(笑)。

私のような緊張しやすく完璧主義なところがある人間は、誰かといると、常に頭がフル回転してしまうんです。「この店でよかったかな?」「会話、盛り下がってないかな?」「相手は楽しんでるかな?」と、自分のことより“相手の評価”ばかり気にしてしまう。もう、疲労困憊です。

その点、「ソロ活」は、そうしたあらゆる「社会的コスト」から私を解放してくれます。

ソロ活がもたらす「究極の自由」

  • スケジュールの完全な自由:誰かに「この日、空いてる?」とLINEを送る必要も、面倒な日程調整も一切不要。今日の今、この瞬間に「行こう」と決められます。

  • 予算の完全な自由:相手の懐事情を気にする必要がありません。今日は贅沢に高級寿司でも、気分じゃなければ立ち食いそばでも、全てが自由です。

  • 選択の完全な自由:「AとB、どっちがいい?」という、あの不毛な探り合いがありません。私が行きたい場所が、その日の目的地です。

  • 「無言」でいる自由:これが私には一番大きいかもしれません。無理に面白い話をする必要も、愛想笑いをする必要もない。ただ黙って、目の前の物事に集中できます。

「みじめな時間」から「最高に贅沢な時間」へ

「一人でカフェ」や「一人で映画」なんて、今や当たり前ですよね。私クラス(?)になると、「一人焼肉」や「一人温泉旅行」も、まったく抵抗がありません。

「一人焼肉」なんて、自分の好きな肉を、自分の好きな焼き加減で、誰にも気兼ねなく、自分のペースだけで食べられるんですよ? 最高じゃないですか(笑)。

「一人温泉旅行」も、宿に着いたらまず3時間昼寝して、それから誰にも急かされず、ただひたすら露天風呂で宇宙(ペルソナ特性)について考えたり…。

こうした「他人に合わせる」というストレスから完全に解放された時間を一度味わってしまうと、「友達がいない休日」は「みじめな時間」ではなく、「自分だけが独占できる、最高に贅沢な時間」へと、その定義が180度変わります。

私のささやかな贅沢は、平日の昼間に有給休暇をとって、ガラガラの映画館(ミニシアター系)で、妻や子供たちですら「え、観ないよ」と言うような、マニアックな映画を観ることです。これができるのは、誰の顔色も伺う必要のない、「ソロ活」の特権ですね。

趣味や習い事で新しい出会いを

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…と、ソロ活を絶賛しておきながら、矛盾するようですが(笑)。

もし「一人は楽だけど、やっぱり誰かと何かを共有したい」という気持ちが少しでもあるなら、「新しいつながり」を求めるのも、もちろんアリです。

ただし、社会人になってからの友達作りは、学生時代とは違います。「意図的に」出会いの場に行く必要があります。

社会人の出会いの場(例)

  • 習い事・スクール: 英会話、料理教室、ジムなど。共通の「目的」があるので、会話が生まれやすいです。
  • 社会人サークル: 登山、フットサル、読書会など。共通の「趣味」で集まるので、話が合いやすいです。
  • ボランティア活動: 共通の「価値観」を持つ人と出会える可能性があります。

私自身は極度の人見知りなので、こういう場に飛び込むのは、正直かなり勇気がいります…。でも、「友達を作ろう!」と意気込むのではなく、「まずは自分が楽しむこと」を第一に考えれば、ハードルは下がるかもしれません。

結果的に友達ができなくても、趣味が深まれば、それはそれで人生が豊かになりますから。

社会人向けの友達作りアプリ活用法

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もっと手軽な方法として、最近は「友達作りアプリ」というのもあるそうですね。私は使ったことがないのですが(妻に怒られそうですし)、少し調べてみました。

恋愛目的ではなく、純粋に「趣味の友達」や「同性の友達」、「近所で飲める友達」を探すためのアプリが、結構たくさんあるようです。

アプリ活用のポイント(らしい)

聞いた話によると、成功のコツは「目的を明確にすること」だそうです。「なんとなく」ではなく、「〇〇の趣味について語れる友達が欲しい」「週末に一緒にカフェ巡りできる同性がいい」など、プロフィールに具体的に書くことが大事みたいですね。

ただ、これはあくまでも私見ですが、ネット上の出会いには様々なリスクも伴います。特に金銭の要求や、意図しない勧誘などには、細心の注意が必要です。

注意点

アプリなどオンラインでの出会いを利用する際は、必ず利用規約をよく読み、ご自身の安全を最優先してください。少しでも「おかしいな」と感じたら、すぐに距離を置く勇気が大切です。最終的な判断は、ご自身の責任においてお願いします。

比較を断ち切るメンタルケア

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「ソロ活」や「新しい出会い」といった行動面も大事ですが、結局は「みじめだ」と感じる自分の「心」をどうケアするかが一番重要だと、私は思います。

私が実践している、最も効果的なメンタルケアは、「物理的に比較対象を見ない」ことです。

前にも書きましたが、私はSNSをほぼ辞めました。他人の「キラキラした生活」が目に入らなければ、比べようがありません。これは本当に効果絶大です。

もし「いきなり辞めるのは無理」という場合は、せめて「自分が落ち込んでいる時」や「休日の夜」など、心が弱りやすい時間帯に見るのは避ける、というルールを作るだけでも違うかもしれません。

比較のスイッチを切る

「みじめさ」のスイッチは、SNSや他人の噂話にあります。意志の力で「比較しない」と頑張るより、物理的に「スイッチに触れない」工夫をする方が、ずっと簡単で確実です。

友達いない みじめさを受け入れる方法

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ここまで色々と話してきましたが、最終的に私は、「友達がいない」という事実と、それに伴う「みじめさ」や「孤独」を、無理に克服しようとしなくていい、と思っています。

私は25年間、「友達がいない自分」と付き合ってきました。この孤独は、確かに寂しいです。時々、宇宙に放り出されたような感覚にもなります。でも、この孤独こそが、私に「人間とは何か」「自分はどう生きたいか」を深く考えさせてくれたのも事実です。

この孤独は、私の弱点であると同時に、私のアイデンティティそのものなんです。

「友達いない、みじめだ」と感じる自分を、「ダメだ」と否定しないでください。それは、あなたが他人との深いつながりを本当は求めている、とても繊細で人間らしい証拠です。

「みじめ」なままでいい。寂しいままでいい。その感情を抱きしめたまま、「他人との比較」ではなく「過去の自分」と比べて、ほんの少しでも「今日はこれができた」「これが楽しかった」と、自分だけの基準で生きていく。

私の信条

「人生は一度きり、自分の望む方向へ」

私の望む方向は、「友達がたくさんいる自分」ではなく、「友達がいなくても、自分の内面世界と家族(と猫)を大切にできる自分」でした。

あなたが今感じている「みじめさ」は、あなたがあなたの人生を生きるための、大切な通過点なのかもしれません。そう考えると、少しだけ、その孤独が愛おしく思えてきませんか。

…なんて、ちょっと格好つけすぎましたかね(笑)。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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